「令和の虎」という登録者数120万人を超える人気YouTubeチャンネル主宰の岩井良明社長が肺がんを告白をしてYouTube引退を発表したニュースが一昨日流れてきました。
岩井社長はどうも具合は良くない様子。他の臓器にも転移しているとか。生前葬を9月に執り行うとか。そこまでの段取りが進んでるって相当悪そうです。
私はこのニュースに動揺をしました。
「令和の虎」自体は正直ちゃんと見たことがありませんが、私がこのニュースに動揺をした理由、
それは、実はこの岩井良明という方が、私が前職でお世話になった学習塾の塾長であり社長であったからです。
今回は私の塾歴と共に岩井社長との関りについて、岩井社長へのエールも込めて、書いてみたいと思います。
(思い出話書いていたら8000字!今回長いです!)
岩井社長との出会い
1995年の秋ごろ、就職業界を決めずに大学4年になろうという私は、「何が向いてるかねぇ?」なんてサークルの後輩に聞いたときに「先生とか向いてるんじゃない?」と言ってもらったことがキッカケでそこから先生を目指すことに。
そうしようと決めたタイミングが大学3年であったので、学校の先生ではなく学習塾の先生を目指しました。塾にしたのはただそれだけの理由でした。
就活なんて言葉がまだなかったその時代、リクナビなんてありゃしないその時代、大学4年の学生の元には電話帳のような就職情報誌がドサッと届きました。
その電話帳のような冊子で学習塾で掲載されていたところは手当たり次第資料を請求をしてエントリーをしていったことを記憶してます。
その中で送られてくる塾の資料が妙に熱を帯びていて、なんだかとても面白そうな塾が1つありました。
その塾こそが愛知県江南市で学習塾「大志塾」を経営する株式会社モノリスであり、そこの代表取締役が岩井社長でした。
その塾の資料には、どんな想いで塾を立ち上げて、どんな想いで指導をしているのかということが熱を帯びて書かれていました。
「うわ~。熱いわ~。こういうところで指導したいわ~」
私はこの塾の資料から大志塾に岩井社長に惹かれていきました。
とはいえ企業規模としては当時まだ2教場ぐらいであったので、第一志望は今も愛知でブイブイ言わせているサナルさんにしていましたね。
そんなサナルさんに華麗に振られた話は以前書いた通り。
こんな経緯も重なって、私は第二希望であった岩井社長の「大志塾」こと株式会社モノリスに入社を決めました。
入社して最初の挨拶だったか、企業説明会の最初の挨拶であったか、どちらであったかは忘れましたが、岩井社長の開口一番のセリフを覚えています。
「うちは先生バカは要りません」
要は教務だけやりたいような人は要りませんよということです。
えええ!?あんなに先生バカ最高みたいな資料を送っておいてぇ!!?
私は大きくショックを受けましたが、「教務だけやってもらうわけじゃないからね、先生とビジネスマンと両方をちゃんと取り組んでもらいますからね」との説明に納得。
先生とビジネスマンと両方やってみようじゃないか。そんな想いを抱いて岩井社長の元で学習塾でのキャリアがスタートしました。
働き放題に感謝
大志塾は入社した1997年に4階建ての本部校を建て、加えて新規開校の校舎を市内を中心に一気に3校舎出すというイケイケのタイミング。
私はこの大きな変化を迎えるタイミングで江南北部校という校舎で集団指導の先生として塾勤務をスタートしてます。
当時ブラック企業などという言葉が無い時代で、中小企業はどこも「残業代、有給休暇、育休って何?食えるの?」なんて時代。
また、岩井社長が同志社の応援団出身だという経緯もあり当時は超体育会系の会社でした。何かあっても気合で仕事をする感じです。
高熱を出して体調を悪くしていた部下に上司が気が付いて体温を聞く。「9度5部です」との返事に対して「そうか…」とスルーをしたという話は、体育会系であることを示す逸話として私たち社員の間に残ってます(笑)
今でいうブラック企業でありながらも、私はその漆黒具合も含めてとても楽しく仕事をさせていただきました(当時はそれが当たり前の時代でしたし)
生徒たちのために頑張って指導をして、感謝をされた上にお金までいただけるだなんて、最高だとさえ当時は思ってました。
1年先輩の石橋さんと一緒に塾の休日にこっそり校舎に出社して、テスト対策授業をワープロで作成したりする時間は至福の時でしたね。
望んで残業をして望んで休日出勤をしていた頃です。
気力体力が有り余るあの時期に、思う存分学習指導に仕事に時間を区切られることなく取り組ませてもらえたことは、今の自分の基礎となっていて財産となっています。
こういった部分は岩井社長に、会社に、多分に感謝をする部分です。
また、体育会系企業らしく、業後とかはよく面倒を見ていただきました。
私が生まれて初めて回らない寿司に連れて行っていただいたのは岩井社長です。確かその場には石橋さんもいらした気が。
私は連れて行っていただいた寿司屋のカウンターで岩井社長に言いました。
「社長、夢をかなえて良いですか?」
「すいません、トロください!」
自分のセリフに酔いましたね。私の回らない寿司でのトロデビューは岩井社長のポケットマネーです。
店の大将が「良い鮎が入ってますよ」なんて言って鮎の塩焼きもご馳走になりましたが、「容姿を見て高い料理も頼みそうだと思う相手にああやって声をかけるんだよ」なんて岩井社長に教えていただいたことも覚えてます(笑)
また、岩井社長とのエピソードで言えば、内定後最初の研修で私が遅刻&居眠りのコンボを決めた時にド叱られたことは外せませんが、その様子は実は以前ブログで書いてます↓
おかげ様で今は遅刻も居眠りもしなくなりました(´▽`)アタリメーカ
会社拡大と「マネーの虎」
今と違って子どもの数がまだまだ多かった時代、会社はドンドンと大きくなっていきました。
その原動力は基本的に岩井社長の好奇心と行動力とバイタリティー。あれよあれよという間に名古屋市内にも校舎を構えて大きくなっていきます。
私はというと、初年度江南北部校(江南北部中学区)、2年目に江南南部校(布袋中学区)、3年目に一宮北方校(北方中学区)で指導を重ね、4年目でついに当時の最年少記録で一宮北方校の教室長を任されました。
当時岩井社長は全体会議などで社員が良いスピーチをしたときには低い声で小さく「ヨシ」というクセがあったのですが、私は教室長就任のスピーチ後に社長の「ヨシ」をゲットできて、とても嬉しかったのを覚えてます。
教室長に就任をしたのが2000年でしたね。当時の過去最高生徒数を更新をして調子よく指導をしているところ、翌年の2001年に岩井社長に呼び出されてこう言われました。
「来年度から個別指導の部門に移ってもらう」
当時はずっと日陰の存在であった個別指導という指導形態の塾が盛り上がってきていて、個別指導塾が学習塾での大きなブームでした。
今や当たり前のように巷に個別指導塾は溢れていますが、当時はまだ勉強が苦手な子が通う特殊な塾と言う認識が強い頃でしたからね。
そんな個別指導ブームの流れに乗って株式会社モノリスでも個別指導部門が立ち上がっていました。
江南駅近くに「ゴールフリー江南中央教室」という名で教室を立ち上げるからそこで教室長をやってほしいと。
岩井社長は覚えてらっしゃらないでしょうが、私はこの場面でもありがたい言葉をいただいてます。
「國立を今の教室にこのまま配置しておくのはもったいない」
なんという力が湧く光栄な言葉でしょう。
元々集団指導で先生をしたくて入社しましたが、こんな言葉を岩井社長にいただいて異動を断る選択肢は私にありません。
こんな経緯で集団指導を4年勤めたあとに個別指導の部門に移ることになりました。
(ここで当時大学生であった犬童くんと知り合い、その個別指導塾で講師として来てもらい、今は同業でお互い岩倉で塾を開く仲です。今日も一緒に祭に行ってきますw)
会社はさらに大きくなっていきます。月に一度の全体会議は行うたびに人が増えていきました。
社長は変わらず絶好調。その人柄とバイタリティーで塾業界の多くの方とも繫がっていき、宣伝広告部門を中心に広がっていきました。
運命の2002年です。全体会議の場で社長が驚くことを言い出しました。
「全国ネットのゴールデン番組である『マネーの虎』に出演することが決まった」と。
社員皆が寝耳に氷水。は?何が?なんで?なんて混乱気味。
その経緯を社長が説明をしてくれました。
「志願者で応募して会社にお金を引っ張ってこようかと冗談半分で出演者募集の電話番号に電話をかけていたら、何度かして繋がって…」
「一生懸命話をしたら『岩井さん、面白いしとてもいいけど歳がだいぶいってるし、虎の方で出てもらえませんか?』と番組スタッフに言われたんだ」とのこと。
そんなことある!?なんていう強運の持ち主なんだろう。さすが社長だなぁ……なんて当時は思いましたが、これは社長の行動力と好奇心とバイタリティの賜物ですよね。
こんな経緯で全国ネットのゴールデン番組に岩井社長が出演をするように。
塾の保護者からは「うちの授業料からあのお金が出てるかと思うと複雑ですね~」なんて言われながらも、社長はマネーの虎で知名度を上げ、それ以降の新卒採用学生のレベルがぐんと上がりました。
岩井社長という人
ずっと社長の元にいると岩井社長と言う人がどんどんと見えてきてます。
岩井社長と言う人は……。
一言でいえば好奇心旺盛な少年のような人だなと私は感じていました。
学習塾が主体でスタートをした株式会社モノリスですが、広告宣伝を扱う部署が出来て、岩井社長はこの広告宣伝の仕事にだんだんとのめり込んでいきます。
元々リクルートのトップ営業マンであったという経歴から教育業界に入ってきた方です。広告宣伝の業界は肌に合っていたのかと思います。
そして、自身が学習塾でプレイヤーとして指導をするということへの熱はだんだんと下がっていきました(笑)
当時、突発的に新教室の授業を社長が持つことがありました。
そして「社長の岩井が授業をします!」なんて折り込み広告を打ったりすることありましたが、しばらくすると社長は授業を抜けてしまうことが何回か続きましたね(笑)
「またすぐに社長は授業を抜けてしまうのではないか」と、周りの社員が抜ける前からその心積もりをしていたのを覚えています。
まるで全然本人が来なかったビートたけしのオールナイトニッポンのようでしたね。
また、書いた通り好奇心が旺盛で共感力も高い人なので、困っていたり共感をしたりする人がいると、誰でも会社に引き入れて新しい部署を作ってしまうところがありました(笑)
あるときは若い俳優を連れてきてその人を社員にすると。そしてその俳優を主演にして舞台を行うと言うのです。
社員皆は寝耳にドライアイス。は?え?なんで?舞台?社員皆でチケット買って見るの?と。
当時の会社の合言葉は「We are 応援団!」で、応援団出身の社長に合わせて世の中様々応援をしていこうといった感じになってました。
この合言葉に合わない仕事などありませんからね。
「ショービジネスも応援をしていこう!」となって、その人を迎えて急遽タレント部門のような部署が出来ました。
そして、モノリス主催で「赤井英和物語~ジャンプ~」という舞台の公演が栄の中電ホールで行われることに。
さらに、岩井社長自身もなぜかその舞台に出ることにもなっていて(+_+)ナンデ?
その上、カブキロックスの氏神一番と知り合いだった社長が一緒に主題歌歌ってCDまで出してました(^^;
もうほんと、やりたい放題です。
振り返れば、私が入社してすぐに受けた研修で、「今まで人生に影響を与えた出来事」といったお題で話をする場面があったのですが、社長自身の振り返りとして小学生のときに取り組んだ劇の取り組みを挙げてらっしゃったことを思い出しました。
社長にとって皆で形を作っていく劇団みたいな仕事というのは、もしかしたら岩井社長の熱い想いの原点に近い活動なのかなとも今になって思います。
令和の虎も「劇的」ですよね。ファンもアンチも巻き込んで、多くの人を魅了する岩井良明劇場なのだろうと感じます。
ちなみに、舞台に立った岩井社長の演技はキッチリ下手っぴで、セリフなく端で立っているときの様はただの岩井社長でした(笑)
どうでしょう?好奇心旺盛な子どものような人な気がしてきませんか?(´▽`)
岩井社長をいじるような記述が続きましたが、私はやっぱり感謝しているのです。塾人としてのイロハ、ビジネスマンとしてのイロハを教えてくれた岩井社長に。
当時の会社の合言葉に「一人一人が起業家であれ」というものもありました。
「一人一人が起業家のつもりで、しっかりと金勘定も含めてビジネスマンとなれるように仕事をせよ!」といったものでしたね。
毎年、新規事業を金勘定込みで提案してこい!という「新規事業提案コンテスト」も行われていて、しっかりビジネスマンとしても鍛えていただきました。
私はこの合言葉のおかげで今元気に起業をして過ごせていると思っています。教務だけをしていたただの先生バカであったならば今の私はありません。
サラリーマンの息子で起業など夢にも見なかった私が、ゼロイチでいろんな活動に取り組めるようになったのは、明確に岩井社長のおかげなのです。
8年お世話になった会社を卒業
こうした岩井社長の大きな好奇心・大きな行動力・大きなバイタリティ・人と繫がる大きな力によって、私はジェットコースターのようなエキサイティングな時間を株式会社モノリスで過ごさせてもらいました。
そして、入社して7年経った頃、岩井社長が楽しそうに仕事をする様をずっと見てきて、自分でも自分の思うように仕事をしてみたいという欲が湧いてきて、会社を退社することを決めました。
集団指導4年+個別指導4年、ビジネスマン8年というキャリアを経て、私は8年間お世話になった株式会社モノリスを2005年に卒業。
私はこの同年11月からさくら個別指導学院を岩倉に開業しました。
「一人一人が起業家であれ」という理念で鍛えられた元モノリス社員たちは、その後も逞しく起業をしていく人が多かったように思います。
社員たちがドンドン起業をして会社を後にする展開というのは、もしかして社長にとって誤算だったのか、それとも予定通りだったのか。
実のところはわかりませんが、おかげさまで私は元気に独立して仕事をさせていただいてます。
岩井社長の元でお世話になった私の8年のお話は以上です。
岩井社長に会いに行く!
さてそこからです。
実は2005年の卒業以来、岩井社長とお会いする機会はずっとありませんでした。社長の活躍はWEBなどから流れて来るので知ってはいましたがそこ止まり。
退社からずっとお会いせぬまま18年ほどたちました。この長い長い空白の時間が、ふとしたことで動き出します。
昨年のことです。
縁があって岩井社長に会社の移転祝いのサプライズビデオレターを元モノリス社員皆で送ろうという企画に参加をしました。
さくら個別に身近な元モノリスの社員が集まって皆でワイワイ動画を撮りました。
多くのメンバーにとっても私同様15年以上お会いしていない状況でしたから、岩井社長には喜んでもらえたようで、返事のビデオレターが届いて皆で楽しんで見させてもらいました。
この機会を経てですね、そこから先輩の石橋先生がちょくちょく私に声をかけてくるように。
「國立先生さえよければ、俺はいつでも岩井社長に会いにいけるからね」なんて。
一緒に会いに行こうよって言えばいいのに(笑)
「岩井社長とはずっと疎遠であったけど、こうした機会があって少しビデオ越しで会話が出来たのも何かの縁かも。また上京する機会があれば石橋さん誘って挨拶に行こうかな」
こんな風に思えるようになってきたのが今年の5月。さあ、いざ会いに行こうと決心をして行動をしたのが約一カ月前の6月の末です。
石橋さんと上京日程を合わせましたので早速東京にいる岩井社長にアポを取ってみます。私が連絡をすることになりました。
今や登録者数120万人の超人気YouTubeチャンネル主催の社長へのアポ取りですが、こういうのにしり込みせずにアタックしていくという心持ちは岩井社長仕込みです。
会いたい日の4日前という失礼を承知で岩井社長に思い切ってラインを送りました。
「急で失礼な話ですが、ご都合許せば石橋さんと一緒にご挨拶に伺っても良いでしょうか!」なんて。
しばらくして届いた岩井社長の返事は……
「わぉ!残念ながら毎週月曜は名古屋なんだよ。またの機会に連絡ください!!」
というポップでありがたいお返事が。
あー残念~。とはいえ、こういうの社交辞令と思わずに図々しく再アタックしようと思える心持ちも岩井社長仕込みかもしれません。
石橋さんに、「残念ですがまた日程合わせていきましょう!」なんて話をしたのが6月末のことです。
・・・
・・
・
そして数日前。
こんな18年ぶりに社長とビデオレターやLINE上で会話を交わしたことが1カ月前にあったところに、岩井社長の肺がん告白とYouTube引退と生前葬の告知が飛び込んできたのです。
なんというか、動揺せずにはいられませんよね。
あぁ、元気よくお返事していただけたものの、その時にはもう自身の肺がんのことはご存知だったろうか。そのときにはYouTube引退も決めたらっしゃったんだろうか。
なんて。
岩井社長へ
先日はお会いできず残念でした。これから治療が忙しくなるでしょうし、貴重な機会を逃したことが悔やまれます。
社交辞令でおっしゃったかもしれない、「またの機会にご連絡ください!!」はアホなふりして文字通りにまた連絡させていただきます。
思い出話をさせてください。
実に28年も前の話になりますが、私が入社1年目でリクルートの新人研修を受講させていただいたときに、岩井社長にとって「心を揺さぶられた過去の出来事」が小学校のときに皆で取り組んだ劇だとおっしゃていたことを覚えています。
それを思うと、社長が開業した大志塾しかり、株式会社モノリスで取り組んだ様々な事業しかり、令和の虎しかり、これら全ては岩井社長を主演とした大きな劇にも思えています。
また、こちらも実に20年ほど前の話になりますが、中電ホールでモノリス主催で公演した舞台「赤井秀和物語~ジャンプ~」はとても良い話でよく覚えています。
社長の大根役者ぶりも(笑)
タイトルの通り「ジャンプ」が劇の肝でしたよね。覚えてらっしゃるでしょうか?
「高くジャンプするにはその前にしっかりとしゃがまなければいけない。失敗に思えるような凹むようなこともそれらは全ては高くジャンプをするための準備なんだ」
「だから何があっても失敗だと思わず、高くジャンプをするために思いっきりやっていけ」
こんなようなメッセージが込められた話だった気がしています。
この「ジャンプ」に例えるならば、社長は今はめちゃくちゃしゃがんでいるところですよね。
そんなにしゃがんだら立ち上がれなくないですか?というぐらい深く深く。
これもここから高くジャンプをするための準備だと勝手に思って、遠くから応援してます。
岩井社長主演のアンコール公演を楽しみにしています。
私の回らない寿司のデビューは社長に連れて行っていただいたお寿司屋さんです。
今度お会いできた時には、石橋さんと一緒に是非回らない寿司屋をご馳走させてください。
そして、調子よく岩井社長をいじるようなこの文章について、「お前いい加減にしろよ」とシバいてもらえることを楽しみにしています。
以上です。
多くの活動を制限されて岩井社長はヒマを持て余していることでしょう。
どこかで見つけていただいて、岩井社長のヒマつぶしになるといいです。
盛大な余談でお送りさせていただきました。
今日はこのへんで。
それでは。
(2024年9月19日追記 岩井社長は2024年9月15日に永眠されました。ご冥福をお祈りします)
國立拓治
最新記事 by 國立拓治 (全て見る)
- 「ボイシー」の自チャンネルで2024年に多く聞かれたベスト5を紹介! - 2024年12月22日
- 子どもの「学校での授業態度」は複数人に聞いて確認を! - 2024年12月16日
- 小6生の冬休みは「中学英語の準備」を是非この教材で! - 2024年12月13日